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浜崎剛男さん 1月から西日本短大付の野球部監督 父・満重さんは92年に全国制覇 - スポニチ Sponichi Annex 野球
【あの人に逢鷹(あいたか) ホークス戦士のその後】春夏通算10度の甲子園出場があり、1992年夏に全国制覇した西日本短大付(福岡)に1月から着任した浜崎剛男監督(53)は、ダイエー、ソフトバンクの球団職員として30年間勤務した。王貞治球団会長、故根本陸夫さんらの姿勢や言葉が財産になっている。ホークス魂と同校で深紅の大旗へ導いた父・満重さんと同じ「守りの野球」で夏の頂点を目指す。
朝から降り続いた雪がグラウンドには残っていた。凍えるような寒さの中でも、夏2連覇中のチームを引き継いだ浜崎新監督の心は熱かった。「(夏の)3連覇というより10連覇以上したい。目標は高く置いておかないと」父・満重さんは社会人野球の新日鉄堺で監督を務めていた。中学3年時に父が西日本短大付の監督に就任するにあたり、浜崎さんも福岡へ。高校は父の下で甲子園を目指した。「人の2倍、3倍しないと認められない」とコツコツ努力を重ねた。メンバーの選定方法は全部員による投票制だったが、3年夏は背番号10でベンチ入り。甲子園に出場し、3回戦の宇部商(山口)戦では右前に適時打を放つなど4強入りに貢献した。「甲子園は土もふわふわで歓声も凄かった。タイムリーも覚えています」と笑みを浮かべる。大学卒業後はダイエー、ソフトバンクで球団職員として30年間勤務した。一番長くいたのは編成部。ドラフトは00年の山村路直(九州共立大)―山田秋親(立命大)の“山山コンビ”から19年まで携わった。華やかな仕事だけではない。嫌な役回りもした。戦力外通告だ。対象の選手に対して「あす球団事務所に…」と連絡する。「僕の電話をみんな嫌がってましたね」と申し訳なさそうに話す。ホークスでは数え切れない出会いがあった。レジェンドの言葉と姿勢が財産になっている。王監督(現球団会長)はまだキャンプ地が高知だった頃から、遅くまでサインする姿が目に焼きついている。「お年玉をためて来ているファンもいる。全力プレーをする」と選手に熱く語りかける姿が忘れられない。監督、GMを務めた故根本陸夫さんからは「雑用したら勝ちだよ。何でもした方がいい。経験した方がいい」と助言された。アマチュア界など各方面にパイプを持ち“球界の寝業師”ともいわれた根本さんはこうも言っていた。「一番大変なのは高校の監督だよ」。スカウティング、選手の育成、就職や進学のサポートをするからだ。20年以上が経過し「まさか自分がなるとは」と語る。92年に全国制覇した父と同じ「守りの野球」を目指す。「最少失点に抑えていかに取るか。ヒット数より得点が多い野球ができれば」と思い描く。週末の練習時間は浜崎監督の現役時代には朝から晩までやっていたが、今は4時間程度。「メリハリをつけてくれたら。後悔しない取り組みをしてほしい」。名門を背負う重圧を力に変える。 (杉浦 友樹)○…浜崎監督にとって日本ハムの新庄監督は高校時代の1学年先輩だ。後輩思いで誰にでも優しかったという。毎日バットを振って練習する背中を見てきた。一番印象に残っているのは肩の強さ。「あの肩はバケモノですよ。普通に投げている送球なのに伸びているような感じ。あれでドラフト5位なので1位は凄いなと思いましたね」と懐かしんだ。◇浜崎 剛男(はまさき・たけお)1972年(昭47)11月28日生まれ、大分県津久見市出身の53歳。すぐに大阪府堺市に引っ越し。小学校時代は堺スチールズで府大会1位。中学時代は硬式の堺シニアに在籍。西日本短大付では主に内野手としてプレー。福岡大でも野球を続けた。ダイエー、ソフトバンクでは営業、スポーツ振興部、タマスタ筑後などでも勤務した。