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【馬淵史郎 我が道8】拓大では野球とバイトの日々…いろんな勉強をした時代だった - スポニチ Sponichi Annex 野球
三瓶高で田内逸明監督の野球論に触れて、野球の奥深さを知った。それまでは投げて、打つだけの野球だった。でも田内さんからは「野球は強いもんが必ず勝つとは限らない。弱いなら頭を使う。それが作戦、戦術や」と教えていただいた。目から鱗(うろこ)が落ちる、というのは、こういうことだと、聞く話すべてが面白かった。自分の野球のベースにも田内さんの野球論がある。
大学も田内さんの勧めもあって、拓大に進学することになる。八幡浜から東京に出て行くとなると、お金もかかる。経済的に決して楽ではなかったから、進学を諦めかけた時期もあったけど、田内さんや周りの人の応援もあって、何とか1年後に進学できた。でも、花の東京に出てきても、生活は厳しかった。野球部の活動がオフになる12月と1月は稼がないといけない時期だった。郵便局でのアルバイトや。12月はお歳暮の配達、1月は年賀状の配達。ここで頑張って、愛媛への帰省費用や春の野球部キャンプの費用に充てていた。よく働いたよ。当時の拓大野球部の監督は綱島新八さん。大映や松竹でプレーした元プロ選手。拓大の前はPL学園でも監督をされていた。田内さんと仲が良かったという関係で、お世話になったという流れだった。1年から遊撃でレギュラーになった。でも4年間の最高成績は2部の3位。神宮が法大・江川卓の投球で盛り上がった時代だったけど、こっちにスポットライトが当たることはなかった。他には駒大の中畑清(スポニチ本紙評論家)、専大には中尾孝義、東洋大には松沼博久・雅之兄弟や達川光男とかがいたね。リーグ優勝とか1部昇格とは縁がなかったが、大学時代は面白かった。「花は桜木、男は拓大」とかうそぶいて、肩で風切って歩いていた。一言で言うなら猛者の集まり。先輩の前ではすべて「押忍(おす)」。厳しいこともあったけど、面倒見のいい先輩が多かった。金銭的に苦労しているのも知っていたから、食事もよくおごってもらった。拓大の4年間で、上級生が手本となって、組織で規律を重んじる行動が大事だということは学んだ。これは社会に出てからも役立った。田舎育ちの人間でも人並みの一般常識を身につけることができた。合宿所周囲の清掃とかも毎日やって、近所の人たちにも応援していただけるように努めた。いろんな勉強をした時代だね。明治神宮大会出場の時などに、今もお世話になっている拓大野球部では、長男の烈が20年から監督をさせていただいている。明徳義塾の寮で生まれ、育ち、高校では主将を務めた。内田俊雄さんの後任として監督となる時に「監督というのは自分で切り開くもの」「馬淵の息子というのは関係ない」とだけ伝えた。親としてはいつも応援している。◇馬淵 史郎(まぶち・しろう)1955年(昭30)11月28日生まれ、愛媛県八幡浜市出身の70歳。三瓶高―拓大。83年に社会人の阿部企業で監督に就任、86年に都市対抗初出場、日本選手権で準優勝。90年から明徳義塾の監督に就任、02年夏の甲子園で優勝。監督として甲子園通算39回出場(春17回、夏22回)は歴代1位。甲子園55勝は歴代4位。23年には日本代表監督としてU―18W杯優勝を果たした。