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【馬淵史郎 我が道12】監督として初の甲子園 開会式に感激で涙が出た - スポニチ Sponichi Annex 野球
明徳義塾の野球部コーチとして、野球漬けの日々が始まった。朝4時半に起きて、6時半の寮の起床時間に立ち会い、朝礼をする。この日課は今も続いている。
コーチ1年目に明徳義塾で英語教師をしていた智子と結婚。高校に勤めているんだからと、自分も教員免許を取得した。夫婦で寮に住んで、長男・烈や子供たちも寮で生まれて育った。これもモットーの「今を頑張る」という流れがあっての人生だ。まず目標を立てて、それに向かって進むという生き方もある。若い子には多いよな。でも将来を決めるのは「今」やと思う。だから選手たちにも言う。「今を頑張る。その積み重ねが将来を決める。今頑張れなかったら、レギュラーにも甲子園にも届かんぞ」と。周りは今を頑張るかどうかで、その人を判断する。社会に出ても、自分の将来を決めるのは周囲の人間の評価というものが大きい。スポーツでも勉強でも仕事でも、今を頑張ってこそ、将来につながる。楽をしたら何にもならん。子供たちにはそう教えている。今を頑張れば、次につながると信じてノックバットを振った。毎日、毎日厳しい練習を選手とともに送った。竹内茂夫さんの後任として監督を要請されたのが1990年(平2)の8月。34歳のときだった。最初の秋の大会はすぐ負けて悔しくてね。スパルタ式に鍛えた。初めての夏の大会が91年。初戦の相手が伊野商やった。忘れもせん。9回2死無走者で2点差負け。そこから1番打者がソロ本塁打、2番がポテンヒット、3番が四球。4番の津川力(元ヤクルト、現NPB審判員)に「まあ一杯やれ」とスポーツドリンクを飲ませて打席に送ったら、逆転サヨナラ3ランを打ちよった。これが監督としての夏初勝利だった。準決勝ではコーチ時代に勝てなかった高知商にも勝って、甲子園出場。初めての開会式には感激した。涙が出たな。1回戦で津川がまた2本塁打して、市岐阜商に勝利。これが監督としての甲子園での1勝目だった。そして翌92年が星稜戦での松井5敬遠。「あれで終わったと言われたくない」と決心したけど、なかなか思うようにはいかなかった。3年間、春も夏も甲子園には届かなかった。自分には能力がない、と辞表を出したこともあった。バッシングも続いたな。遠征のバスに石が投げ込まれたこともあった。心が折れそうになったとき、四国の多くの監督さんの話が支えになった。憧れだった松山商の一色俊作さん、池田(徳島)の蔦文也さん…。練習試合をさせていただき、高校野球とは、という考え方を教えていただいた。阿部企業で全国で勝った経験もゼロにして、口癖だった「絶対」という言葉も捨てた。この3年間でいろんな話を聞けたことが自分の財産にもなり、明徳義塾が甲子園の常連になる土台になった。そう感じている。◇馬淵 史郎(まぶち・しろう)1955年(昭30)11月28日生まれ、愛媛県八幡浜市出身の70歳。三瓶高―拓大。83年に社会人の阿部企業で監督に就任、86年に都市対抗初出場、日本選手権で準優勝。90年から明徳義塾の監督に就任、02年夏の甲子園で優勝。監督として甲子園通算39回出場(春17回、夏22回)は歴代1位。甲子園55勝は歴代4位。23年には日本代表監督としてU―18W杯優勝を果たした。