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【駒田徳広 我が道23】バット寝かせるハマの新打法 足を高く上げて上と下のバランスが良くなった - スポニチ Sponichi Annex 野球
横浜市内のホテルで横浜(現DeNA)入団発表が行われた1993年(平5)12月9日、自宅に帰って藤田元司さんに電話した。「いろいろお世話になりました」とお礼を言うと、こうおっしゃってくれた。
「大変だったねえ。よく頑張った。全部一人で抱えてやったんだから立派なもんだ。苦労させたなあ。お前みたいな子は最後までジャイアンツにいなきゃいけなかったのになあ。悪かった。ごめんな。横浜に行って頑張れよ」こんなこと言ってもらったら、泣いてしまう。「売り言葉に買い言葉みたいな話はするんじゃないぞ」とくぎを刺されたことを守れたかどうか怪しい私をねぎらってくれた。新天地の横浜ではこのオフ、高木豊さん、屋鋪要さん、市川和正さん、山崎賢一、松本豊、大門和彦が自由契約になった。私が移籍を決めた後のタイミング。もし先に分かったら考え直していたと思う。年俸は巨人から据え置きの1億2000万円。「横浜は駒田を獲るために生え抜き選手を大量に切った」と言われても、私自身はどうしようもない。ファンからのご批判、歓迎されない雰囲気は感じていた。ちょっとつらかった。31歳にしていきなりチーム最年長として迎えた移籍1年目の94年。「3割、30本」を目標に掲げながら打率・284、13本塁打、68打点に終わった。前年の・249、7本塁打、39打点よりは良かったが、左打者としては史上最多となる29併殺打を記録してしまった。原因は分かっていた。前年から仙腸関節が悪く、下半身の可動域が狭くなっていた。下が止まって、上半身がかぶるから打球が上がらない。以前は左翼席へ運ぶこともできた外のシュート系の球を打つとゴロ、6―4―3の併殺打になった。ここから試行錯誤が始まる。歩きながらハードルをまたいで下半身の可動域を広げるトレーニングを取り入れ、打ち方も少しずつ見直していった。95年は打率・289、6本塁打、66打点。3割打たないと現役が続けられなくなると思って打率を重視した分、本塁打が減った。近藤昭仁さんに代わってバッテリーコーチの大矢明彦さんが監督になられた96年は打率・299、10本塁打、63打点。ヘッドコーチの弘田澄男さんが若い波留敏夫(現オリックスヘッドコーチ)らにバットの出し方を教えているのを見てヒントをもらった。構えた位置でバットを寝かせるとインパクトまできれいにバットが出る。次は足だ。荒川博さんに教わったように足を高く上げてみたら、上と下のバランスが良くなった。荒川道場に通った日々がここで生きてきたのだ。あとヒット1本で3割というところまでいった96年シーズンがその後の優勝、さらには通算2000安打につながっていく。◇駒田 徳広(こまだ・のりひろ)1962年(昭37)9月14日生まれ、奈良県三宅村(現三宅町)出身の63歳。桜井商から80年ドラフト2位で巨人入団。3年目の83年にプロ野球史上初となる初打席満塁本塁打の衝撃デビューを飾る。93年オフにFAで横浜(現DeNA)へ移籍。通算2006安打。満塁機は打率.332、200打点とよく打ち、満塁弾13本は歴代5位タイ。一塁手としてゴールデングラブ賞10回。